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6話 紫苑、揺れる《7》

Author: 砂原雑音
last update Last Updated: 2025-05-20 21:06:17

勿論、一瀬さんに対する気持ちが雪さんに残ってるのはなんとなくわかる。

だからこそ余計に、雪さんは一瀬さんがこの店を捨てないことにあんなに苛立ったのだと思う。

だけど、まさか『誘惑』が会社絡みのことだと欠片も思い浮かばなかった自分が、恋愛ごとにしか興味がない子供のように思えて恥ずかしかった。

「彼女が紛らわしい言い方をするからですけどね」

「いえ……私も、そういう冗談が通じないというか」

すみません、とますます赤くなる顔を伏せた。

確かに彼女はあの時、冗談めかして話をしていた。

その時に、少しくらい察することもできたかもしれないのに。

こつこつ、と歩く気配がして顔を上げると、一瀬さんがカウンターの中から出て私の座る客席側へと回ってきた。

一つスツールを開けて、彼はカウンターには背を向けて店内を見渡せるように逆向きに座る。

「どこにも行きませんし、この店を誰かに任せるつもりもありません」

店内を見渡す一瀬さんの目は優しく慈しむようで、暖かい。

この店が大切なのだと、瞳が語っていた。

「……それは、このお店が雪さんのために作られたからですか」

尋ねるのが怖い。

けど聞かずにはいられなかった。

一瀬さんの横顔に、ふっと照れたような色味が差して、私はずきりと胸が痛む。

「俺と雪が働いていた部署は、兎に角忙しいとこでね。ろくに顔を合わさない月もある状況だったけど、充実してた」

恐らくは一瀬さんも無意識に、いつもの敬語ではなくなっていた。

それは、私に気を許してくれているからではなく、きっと今彼の心は過去に浚われようとしている。

ざざざ……と波の音が聞こえた気がした。

過去の想いが押し寄せて、店を満たしていくような錯覚。

「ただ、忙しすぎた……っていえば言い訳か。雪の体調の変化に、俺も雪も気付かなくて」

表情が陰り、彼は一度深呼吸をした。

「気付いた時には、もう手遅れで」

淡々と、最低限の単語しか使わない絞り出すような声に、余程その時のことがつらかったのだろうと、それだけは胸に痛いほどに伝わってくる。

「雪さん……ご病気なんですか?」

そう尋ねた私に、一瀬さんは少し顔を上げて首を傾げると泣きそうな表情で笑った。

「大丈夫ですよ、今はすっかり元気なはずです。でなければ復帰して海外出張に行こうなんてしないでしょう」

「そうですか」

それもそうだ、とほっと胸を撫で下ろす。

「ただ、も
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  • 君と花を愛でながらー消えない想いを胸に閉じ込め、私はそっと春を待つー   最終話 恋するチューリップ《3》

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